乱暴なタイトルに思うかもしれませんが、これが意外と的を得ていると僕は思っています。世界中にチャイナ・タウンがあることでも分かるように、彼らのコミュニティ形成能力はかなり優れていると言えるでしょう。例えば、イギリスでの生活の中で知り得た中華圏出身の友人たちは、異国にいても自分の意見を主張することを、決して躊躇うことはありませんでした。どんなに間違った英語を話していたとしても、少なくとも多くの日本人のように恥ずかしがったりすることはないのです。この姿勢は言語習得には第一と言ってもいいほど重要だと思います。異国に根を張り、コミュニティを形成していくならなおさらでしょう。何故このような民族性を持つことになったのか。その理由が垣間見える、こんな出来事がありました。
レディングの学校でも、ロンドンの大学でもそうだったのですが、やはり様々な民族で一つのクラスが作られると、先ず出身大陸もしくは地域ごとで友人グループが出来ていくものです。視覚がもたらす安心感は、見識や理解など軽く越えてしまうのかもしれません。かくいう僕も、順当に”東アジア共同体”の一部となったわけなのですが、その中で圧倒的なマジョリティは勿論中国人です。
ある日、福建省出身の二人、東北地方出身の一人(確か遼寧省だったと思いますが失念)、香港出身一人、そして僕という五人で中華料理屋を訪れました。それまでにも何回もこうやって中華料理を食べることはあり、その際の注文は基本的にいつもチャイニーズ・ユーザーに任せていたのですが、今回は少し様子がおかしい。いつもならああだこうだ、喧々諤々と言っても良いほどに白熱する料理選びが、その時は香港出身の友人だけが店主とメニューを見ながら相談をし、時々他の友人に一言、二言何かを聞くだけだったのです。後で事情を聞くと、その香港出身の彼と店主は広東語で話していたので、他の地域出身の友人たちには彼らが何を話しているのか全く理解出来ないという。僕はそれほど違うものかと思い、試しに「行く」という単語をそれぞれの地域の言葉で発音してもらったのですが、これが全く音としてどれも似ても似つかない。とは言っても、一方で彼らは全員マンダリン、いわゆる北京語によって高いレベルで意思疎通が出来るわけです。北京語ですらもはや彼らにとっては母語ではなく、十五億人とも十七億人とも言われる多民族国家中国においては国内で人とコミュニケーションをとる場合ですら、彼らにとって最初の”外国語”を使っているのではないか。中国という国そのものが、彼らにとっての最初の”世界”なのかも知れないなと思ったのでした。
(写真:レディングで通っていた学校)